非日常空間が集中力やひらめきを生む

~阿房列車のすすめ~

交通機関を利用する目的は何かと聞かれたら、移動手段と答える方が大部分でしょう。
歩いていけないくらい遠いから、身体がしんどくて歩けないからといった事情があるので、あえて対価を支払って利用するわけです。

作家の内田百閒は、「阿房列車(あほうれっしゃ)」という小説を書きました。
内容は紀行文のようなものですが、目的地があって列車に乗るわけではありません。
列車に乗ることを目的として旅行をするのです。
観光もせず、ひたすら列車に乗っていることを楽しみます。

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という一文に、作者の気持ちがよく表れています。

主人公=作者の奇行ぶりも描かれています。

途中駅で、次の列車への乗換を急ぐよう駅員にせかされました。
そもそも乗ってきた列車が遅れたことが原因なのになぜ自分が走らなければならないのかと癪に障ります。
わざとゆっくり歩いて乗り遅れてしまいました。

盛岡駅へ行くのに上野駅を朝9時に出る列車に乗れば当日中に着けます。
しかし、主人公は早起きをしたくないからといって午後の列車に乗って途中福島で一泊してわざわざ時間をかけて行くのです。

また、用もないのに列車に乗るのだから一等車(現在のグリーン車)にしか乗らないというこだわりもあります。
そのため、借金までしてしまいます。

時代は戦後間もない1950年代前半で、「乗り鉄」の走りともいえるかもしれません。

現代の「乗り鉄」は、列車に乗ること自体を楽しむことはいっしょですが、実際の目的はさまざまです。
新しい車両を体験したい人、より多くの路線の乗りつぶしを目指す人、車窓を楽しみたい人など十人十色です。
最近では、鉄道オタクではない若い女性もいるようです。
列車に乗って車内や降車駅の近くで酒を飲むことを楽しむテレビ番組も人気です。

内田百閒にも現代の「乗り鉄」にも共通しているのは、自分のペースを守って自分の時間をぜいたくに満喫していることです。
ふだんのストレスから解放されて精神的満足を得られることが快感という人も多いでしょう。
見知らぬ風景を見ることで好奇心を満たす喜びもあります。

一方で、列車に限らず、バスでも飛行機でも船でも、思わぬ集中力やひらめきを生むことがあります。
適度な揺れや非日常的な空気のせいでしょうか。
私の場合、車内で読書をしたり、勉強をしたりすると結構頭に入ります。

長らく悩み続けていた難しい問題を頭の中でもんもんと考えていたら、ふとした瞬間、解決策を思いついたこともあります。

作家の松本清張も言っています。
風呂やトイレの中とか、電車とかバスとかに揺られているときに小説のアイデアがひらめくことが多いと。
つまりぼんやりしているときがいいのだそうです。

車内では仕事がはかどることに気付いている人は意外と多いようです。
最近では、新幹線にパソコン作業やウエブ会議ができる専用車両まで設けられるようになりました。

このように、交通機関には本来の目的とは異なる活用の仕方があるのです。
誰にも邪魔されずマイペースを保てること、集中できること、リラックスできることといったさまざまなメリットがあります。

とくに一人旅の方がより高い効用が得られるのではないでしょうか。

たまには目的もなく列車やバスに揺られてみることをおすすめします。